2026年7月、M&Aで生じる「のれん」の会計処理を巡る約1年の議論が決着しました。日本の会計基準の見直しを審議する企業会計基準諮問会議が、スタートアップ業界などの求めてきた「非償却」の導入を見送り、現行の規則償却を維持することで決着したと報じられています。
実は「のれんを償却すべきか否か」は、日本だけの論点ではありません。IFRSを開発するIASB(国際会計基準審議会)と米国基準を開発するFASB(米国財務会計基準審議会)も2022年に相次いで結論を出しており、世界の三大基準設定主体が15年以上かけて議論してきた、会計の大論争の一つです。
買収を行うと、買い手のB/Sにはほぼ必ずのれんが計上され、その後の損益を長期にわたって左右します。本記事では、まずのれんの基本——発生の仕組み(PPA)と減損——を初学者向けに押さえたうえで、今回の決着に至った世界的な論争の構図と、財務モデリング・バリュエーションへの実務的な影響を解説します。
のれんとは:買収価格の「説明できない部分」
のれん(Goodwill)は、次の引き算で機械的に決まる残差です。
のれん = 買収対価 − 識別可能な純資産の時価
買収対価が、個別に識別・評価できる資産と負債の時価純額を上回った分がのれんです。中身は、超過収益力、シナジーへの期待、優秀な人材や組織文化といった「個別には切り出せない価値」の束、そして時には単なる払い過ぎです。会計はその内訳を区別できないため、まとめて一つの資産として計上します。逆に買収対価が純資産時価を下回った場合は「負ののれん」となり、発生した期に一括で利益計上されます。
PPA(取得原価配分):のれんが確定するまでの流れ
買収が完了すると、PPA(Purchase Price Allocation、取得原価の配分)という手続きで買収対価を配分します。ポイントは、のれんに行き着く前に、識別可能な無形資産をできる限り切り出して個別に計上することです。顧客関係、商標・ブランド、技術・特許、受注残などが代表例で、外部の評価専門家が時価を算定します。
数値例で見てみます。株式価値800億円で買収した会社の、簿価純資産が300億円だったケースです。
| PPAのステップ | 金額(億円) |
|---|---|
| 買収対価 | 800 |
| 簿価純資産 | 300 |
| 有形資産の時価評価差額(土地の含み益等) | +50 |
| 識別された無形資産(顧客関係・商標・技術) | +200 |
| 無形資産計上等に伴う繰延税金負債 | −70 |
| 識別可能純資産の時価 計 | 480 |
| のれん(800 − 480) | 320 |
買収プレミアム500億円のうち、250億円は資産の時価評価と無形資産の識別で「説明」がつき、残りの320億円(繰延税金負債の影響込み)がのれんとして残る、という構図です。PPAで無形資産を多く識別するほどのれんは小さくなりますが、その分、償却費(無形資産の償却)が将来のP/Lに乗ってきます。
日本基準とIFRS・米国基準:のれん会計の決定的な違い
| 論点 | 日本基準 | IFRS・米国基準 |
|---|---|---|
| のれんの償却 | 20年以内の効果の及ぶ期間で規則的に償却 | 償却しない |
| 減損テスト | 兆候があれば実施 | 毎期必ず実施(兆候不要) |
| P/Lへの影響 | 毎期償却費が利益を圧迫 | 平時は影響なし、減損時に一括損失 |
この違いは実務に大きな影響を与えます。日本基準の会社は買収のたびに償却負担で営業利益が目減りするため、大型M&Aを繰り返す企業がIFRSへ移行する動機の一つになってきました。一方IFRSでは平時の損益は軽い代わりに、事業が想定を下回ったときに減損損失が一度に噴出します。同じ買収でも、採用基準によって決算の見え方がまったく変わるのです。
では、なぜ日本基準だけが償却を続けているのでしょうか。その答えは、世界の基準設定主体が15年以上続けてきた論争の歴史にあります。
世界は15年議論して「変えない」を選んだ:のれん償却論争の全景
意外に思われるかもしれませんが、かつては世界中が「償却派」でした。1970年に定められた米国の旧基準は最長40年での規則償却を義務付けており、IFRSの前身にあたる旧基準も、耐用年数は20年を超えないという推定のもとで償却を求めていました。流れが変わったのは2000年代前半です。米国が2001年、IFRSが2004年に相次いで償却を廃止して「減損テストのみ」のモデルへ移行し、20年以内の規則償却を続ける日本基準は国際的な少数派になりました。
償却派と減損オンリー派、それぞれの論理
償却派の考え方はこうです。のれんは買収時点の超過収益力に対する支払いであり、その効果は時間の経過とともに費消されていく。であれば、固定資産の減価償却と同じように規則的に費用化し、買収の成否を毎期の利益で検証すべきだ——。実際、減損テストだけに頼るモデルには「損失の認識が遅すぎ、小さすぎる(too little, too late)」という批判が絶えません。買収先が既存事業と統合されると、既存事業が生み出す収益力が緩衝材となってのれんの減損が表面化しにくくなる、シールディング(遮蔽効果)と呼ばれる構造的な問題もあります。経営者が減損を認めるのは、往々にして失敗が誰の目にも明らかになった後です。
一方の減損オンリー派は、のれんの価値が毎年一定のペースで減っていくという仮定にこそ根拠がない、と反論します。恣意的に選ばれた償却年数で機械的に費用配分しても、投資家の意思決定に役立つ情報にはならない。むしろ毎期の減損テストこそが「あの買収はうまくいっているのか」を検証する情報価値を持つ、という立場です。IASBの分析では、償却を再導入してものれん残高が先に目減りするだけで減損認識の遅れは解消されず、シールディングをかえって悪化させ得るとも指摘されました。
IASBもFASBも「変えない」で決着(2022年)
IASBは2014年に始まるIFRS第3号の適用後レビューで償却再導入を求める声を受け、再検討に着手しました。しかし2020年に公表した討議資料の段階で「減損オンリー維持」の予備的見解を示し(賛成は審議会メンバー14名中8名という僅差)、最終的に2022年11月、減損オンリー・モデルの維持を決定します。集められた証拠は、会計処理を変更するだけの説得力ある根拠を示さなかった、というのが結論でした。
興味深いのはFASBの経緯です。審議では一時、原則10年(上限25年)で償却するモデルの再導入へ大きく傾いていました。ところが2022年6月、投資家にとっての便益が限定的であることなどを理由に、プロジェクトそのものを全会一致で中止します。米国基準も結局、現行の減損オンリーのまま残りました。
そして日本も「償却維持」を選んだ(2026年)
日本の議論は2025年、経済同友会ほか12団体、スタートアップ有志35社、企業経営者有志138名による提案から本格化しました。内容は、①償却に加えて非償却も選べる「選択制」の導入、②のれん償却費の計上区分を営業費用から営業外費用・特別損失へ変更する、の2点です。背景には、毎期の償却費が営業利益を押し下げ、スタートアップのM&Aや海外企業との買収競争を阻害しているという問題意識があり、経済同友会の調査では回答した経営者の73.6%が「のれんの規則償却はM&Aを検討するうえで障害になっている」と答えています。
これを受けてASBJ(企業会計基準委員会)は、財務諸表の作成者・利用者・監査人・学識経験者を対象に9回の公聴会を開催しました。経済界の中でも、経済同友会が非償却を求める一方で経団連は支持しないなど意見は割れましたが、非償却がもたらす突発的な巨額減損リスクへの警戒は根強く、2026年7月の企業会計基準諮問会議で、現行の規則償却を維持し、選択制の導入も見送ることで決着したと報じられています。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1970年 | 米国:最長40年での規則償却を義務化 |
| 2001年 | 米国:償却を廃止し、減損テストのみへ移行 |
| 2004年 | IFRS:償却を廃止し、毎期の減損テストへ移行 |
| 2014年 | IASB:適用後レビューを機に償却再導入の是非を再検討開始 |
| 2020年 | IASB:討議資料で減損オンリー維持の予備的見解(賛成14名中8名) |
| 2022年 | FASB(6月)・IASB(11月)がともに償却再導入を見送り |
| 2025年 | 日本:経済団体・スタートアップ等が非償却の選択制を提案、公聴会開始 |
| 2026年7月 | 日本:現行の規則償却の維持で決着(非償却・選択制は見送り) |
三大基準設定主体は、長い論争の末、いずれも「自分たちの現行モデルを変えない」という結論に至りました。どちらのモデルにも決定打がない——これが現時点でのこの論争の答えです。分析者にとって重要なのは、どちらが正しいかを論じることよりも、両モデルの弱点(償却年数の恣意性と、減損認識の遅れ)を理解したうえで決算数値を読むことです。
のれんの減損が意味するもの
減損は、のれんを含む資産グループの回収可能価額が帳簿価額を下回ったときに、差額を損失計上する手続きです。会計的には資産の評価減ですが、経済的なメッセージは明確で、「あの買収価格は正当化できなくなった」という経営の自己申告に他なりません。だからのれんの減損は株式市場でも厳しく受け止められ、経営責任の議論に直結します。
分析者の視点では、のれん残高の大きさは「過去の買収に依存したB/S」のシグナルです。純資産に対するのれんの比率が高い会社は、減損一発で自己資本が大きく毀損するリスクを抱えており、デューデリジェンスや与信判断で必ずチェックされるポイントになります。
モデリング・バリュエーションへの影響
アクリーション・ダイリューション分析への影響
M&Aの統合モデル(プロフォーマモデル)では、PPAの結果として増える無形資産の償却費(および日本基準の場合はのれん償却費)を買収後のP/Lに織り込みます。アクリーション・ダイリューション分析でEPS(1株当たり利益)への影響を計算する際、この追加償却が希薄化要因として効いてきます。今回の償却維持の決着により、日本基準の買収モデルでは引き続き「償却年数を何年に設定するか」が買収後の利益計画を左右する重要なインプットであり続けます。
EBITDAには効かない:マルチプル比較の注意点
のれん償却は非現金費用です。EBITDA(利払い・税・償却前利益)には影響せず、キャッシュフローでは足し戻されます。EV/EBITDAで比較する限り、償却方針の違い(日本基準かIFRSか)はマルチプルを歪めない、というのがEBITDA系指標が国際比較で好まれる理由の一つです。
逆に言えば、PER(株価収益率)や営業利益ベースの指標で日本基準の会社とIFRSの会社を並べて比較すると、償却方針の違いがそのまま歪みになります。実務では、のれん償却費を足し戻した「償却前利益」で利益をそろえるか、EV/EBITDAのような償却の影響を受けないマルチプルを使うのが定石です。
会計と税務は別物
会計上ののれん償却費は、日本では原則として税務上の損金になりません(税務上は資産調整勘定という別の概念があり、取引スキームによって扱いが異なります)。モデルの税金計算で会計償却をそのまま損金扱いすると税負担を誤るため、会計と税務は別物と意識しておくことが重要です。
まとめ:のれんは買収の「期待」の勘定科目
のれんは、買収対価と識別可能純資産の時価の差額として機械的に決まり、PPAで内訳が整理され、日本基準なら償却・IFRSなら減損テストで事後検証されていく勘定です。その事後検証のやり方を巡って世界は15年以上議論し、それぞれ「変えない」を選びました。のれんの残高は「買収時の期待」の残り姿であり、減損はその期待の下方修正宣言です。この構造を押さえておくと、M&A後の決算も、のれん会計を巡るニュースも、プロフォーマモデルも読み解けるようになります。
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